医師を目指すあなたへvol.1(中編) 静岡民医連 学生センター 杉山 大さん「医師の仕事を知ろう」

中編「医師の仕事を知ろう」では、引き続き静岡民医連の杉山さんに、「診療所の医療」と「在宅医療」についてお話いただきました。

静岡県民主医療機関連合会(静岡民医連)
学生センター 医学生担当 杉山 大さん

 

民医連とは
正式名称は全日本民主医療機関連合会で、「無差別・平等の医療と福祉の実現」を理念としている全国組織。静岡における民医連は1978年に結成され、静岡県東部・中部・西部で事業を展開している。

※参考
・全日本民医連(https://www.min-iren.gr.jp/
・静岡民医連(http://min-iren-shizuoka.jp/
・全日本民医連医師臨床研修センター [aequalis(イコリス)](https://aequalis.jp/

医療現場での経験を教えてください

浜松市浜北区にある「生協きたはま診療所」というところで医療事務をしていました。普段いる医師は所長1人だけです。看護師、放射線技師、事務を合わせても、1日あたり9~10人のスタッフで運営していました。事務は、医師と患者さんを第三者的な視点で俯瞰で見ることができる立場でもあります。だからこそ、医師ってすごいな、医療って大切だな、と実感する毎日でした。

病気の不安から厳しい顔をしていた人が、診察室から出てきたときには晴れやかな表情になっている、そんな場面に出会うと本当にうれしくなりました。医師は、こんなにも患者さんを安心させる力を持っている、言い換えれば、医師に話を聞いてもらうことで、患者さんが困難に立ち向かう勇気を得て、厳しい現実に帰っていけるのだな、そう思わされる日々でした。

こういった経験を重ねると、私たちも、困っている患者さんに対して積極的に接することができるようになります。「あなたの悩みを、きっと先生が解決してくれますよ、大丈夫」。診察券を受け取るとき、心のなかでそう呼びかけている自分がいました。患者さんに対する医師の姿勢は、スタッフの姿勢にも大きく影響を与えるものだと思います。私もだいぶ感化されました(笑)。

生協きたはま診療所

どういった患者さんが多かったのでしょうか

医療事務になりたての頃、病院や診療所は、具合が悪くなった人が来るところだと思っていました。ところが、そうではないんですね。明るくて前向きな患者さんがとても多いんです。来院される患者さんの9割ぐらいは持病(慢性疾患)をお持ちで、薬を処方してもらうための定期受診を必要としている方々です。生活習慣病に代表される慢性疾患は、遺伝や体質に起因しており、根本治療が難しいため、服薬と健康管理が重要です。

そのため、医師との会話は、食事や運動の話題が多かったです。みかんを食べすぎたから気をつけているとか、今月はプールで何キロ泳いだとか、診察室のやりとりから患者さんの生活が浮かんできます。疾患を持っていると自覚しているからこそ、定期的に診療所に立ち寄って、医師との会話で健康状態を確認して、また生活の場へ帰っていく、そういうところなんだと実感しました。

患者さんとの距離が近いんですね

もう顔見知りの人ばかりです。通勤途中に朝のあいさつを交わしたご近所さんが、患者さんとしてやってきます。駅前の商店のおかみさんから予約の電話がかかってきます。畑仕事をしているおじさんが、土で黒くなった手で保険証を差し出してきます。周辺の相当数の住民が、診療所を利用しており、ここは患者さん個々人のかかりつけ医であるとともに、地域にとっての医療資源なのだと肌で感じました。ですから、患者さんという用語と同じぐらい「利用者さん」という呼称が定着していました。

診療所の職員もほとんどが浜北区内在住です。職員も患者さんも、同じ地域の住民なんです。患者さんとの会話は自然と地域の行事や子どもの成長のこと、家業のことなど、生活全般に関わる話が多くなります。印象的だったのは、果樹や園芸など浜北区特有の農業の話題が多かったこと、またお盆には遠州大念仏という風物詩の話題など、会話にも地域性や季節感がふんだんにあったことです。おそらく、大きな病院では考えられないくらい、世間話が多いのではないでしょうか。仕事帰りにちょっとスーパーに寄ると、後日、患者さんから「この前買い物に来ていたね」と声をかけられることもありました。どこからか見られていたんですね(笑)。

まさに地域のかかりつけ医ですが、服薬と健康管理の他には、どんな役割があるのでしょうか

かかりつけ医として利用されているということは、5年10年、あるいはそれ以上の長期にわたって利用している方が大勢いるということです。そのなかで、利用者さんが偶発的に病気になったとき、診療所の医師は迅速に、適切な病院や専門の医師へとバトンタッチすることができます。

診療所の医師が紹介状(正しくは、診療情報提供書と言います)を書いて、急性期や重篤な疾患を扱う医療機関へつなげることを、病診連携と呼ぶのですが、病院にとって情報の無い患者さんを一から診察するのは大変です。労力を要することであり、病院の医師が疲弊する一因となってしまいます。患者さんのメリットとして、病院に直接行くよりも、最初に診療所に来て相談した方が、結果的に病院の予約をスムーズにとれるし、どの病院のどの科にかかればいいかまで教えてもらえます。病院の医師にとっても患者さんの病歴や紹介に至った理由、服薬情報、関連する検査結果などを診察前に入手でき、より正確に患者さんを把握できるという利点があります。

また、紹介から総合病院などで検査してきた場合、診療所の医師にも検査結果が届きますから、診療所でさらに詳細な説明を受けることが可能です。これまで積み重ねてきた関係性があるので、利用者さんも遠慮なく質問しやすいようです。病院の検査で所見が見つかり、入院や治療が必要となる場合もあります。それでも、治療が終わってからの経過観察は、また診療所が担うんですね。診療所の医師と地域の利用者さんとの関係は、それぞれの人生が続く限りずっと継続していきます。

「前編」でも少し触れたプライマリ・ケア(身近にあって、なんでも相談にのってくれる総合的な医療)を提供するということは、つくづく奥が深いことなんだと思いました。本当にいろいろな患者さんがいて、医師は治療する人というよりは相談に乗ったり励ましたりしながらその人と一緒に人生を歩む伴走者なんだな、と実感させられました。

現場で最も困ったことはなんでしょうか

待ち時間の問題では、利用者さんに対して心苦しく感じる場面もしばしばありました。診療時間が延びてしまったり、症状が出ていて急を要する患者さんを優先的にお通ししたりすることで、予約の時間が守られなくなってしまいます。「予約した意味がない」とお叱りを受けたことも一度や二度ではありません。当時、午前8時半から12時までの3時間半で35人の患者さんの予約をとるという運用をしていました。ところが、当日の電話や予約無しの来院で40人以上が受診するということが日常的にありました。

すると、午後1時まで、2時までと診察時間が伸びていってしまいます。休憩室に手を付けられないままの弁当箱が残っている、先生のお弁当です。胸が痛くなる光景です。医師が昼ごはんを食べられずにそのまま訪問診療に出かけ、帰ってきたらすぐに夜間診療に突入する、そういう事態も発生していました。

しかも、先生は診察時間以外に無料の相談時間を設けていました。例えば、認知症の家族がいて介護の問題を抱えている人の相談は、優に30分を超えることが想定されます。でも、診察時間中だと次の患者さんが待っていて難しい。この患者さんには時間をかけた方がいいと判断すれば、「(休憩時間の)午後2時から時間をとりましょうか」と提案できるようになっていました。それが、私たちにとっても、すごくうれしいことだったんです。もし、そういった対応ができなければ、他の患者さんもいるので、「診察が長引いて、待合室が人であふれかえっているな・・・」と、迷惑に感じてしまっていたかもしれません。

生協きたはま診療所には最近、新しい先生が加わって多少改善されたようですけれど、私が出会った医師の方は、皆さん自分の時間を削って患者さんに尽くしています。ですから、「これから医師が余る」という発言や報道には違和感があります。1時間待って、診察が5分しかできないという状況もあるなかで、「現場を知らないんじゃないかな」と。診察時間によっても、提供できる医療の質が違ってきます。私たちにとって、5分と7分の診察時間の差は大きいです。聞き取り時間や、説明できる情報量、受付や会計の余裕も含めて考えると全然違うものなのです。

国の方針として、在宅医療を推進しています

生協きたはま診療所でも実施しています。在宅医療は、地域がベッドという考え方で、医師が患者さんのお宅を定期的に訪問して行う医療です。家庭によって患者さんの状況も様々です。患者さんがご自宅のどこの部屋を居場所としているかで、その家における患者さんの立場や果たしてきた役割がわかると言われています。臨終間際の患者さんのお宅に同行したことがありました。息子さん、お嫁さんらご家族が自然体で穏やかだったのが印象的でした。みなさん、死期が近いということも、それがどのように現れるかということも理解され、受け入れられていたんですね。

次の一文は、山崎章郎さんという医師の著作『病院で死ぬということ』の中に出てくる一節です。おおもとは、ドイツに生まれアメリカで活躍したエリザベス・キューブラー=ロスという医師が著した『死の瞬間』(鈴木晶訳)からの引用です。

患者がその生の終わりを住みなれた愛する環境で過ごすことを許されるならば患者のために環境を調整することはほとんどいらない。家族は彼を良く知っているから鎮痛剤の代わりに彼の好きな一杯のブドー酒をついでやるだろう。家で作ったスープの香りは、彼の食欲を刺激し、二さじか三さじ液体がノドを通るかもしれない。それは輸血よりも彼にとっては、はるかにうれしいことではないだろうか

つまり、患者にとって住み慣れた家にいることが最も心穏やかで幸福になれるということを言い表しています。家族の負担や条件にも左右されることですし、家で過ごすことがいつでも理想だとは思いません。それでも、たとえ1泊だけ、あるいは数十分の一時帰宅だけでも患者さんの心が晴れるのであれば、選択肢として有意義だと確信しています。

日本の医療では、「積極的な治療」の適応、つまりこれ以上やれることが無くなると入院の継続が難しくなるような仕組みになっています。そのようなとき、医師の役割が変わります。命を伸ばす(死期を遠ざける)だけが医療ではないんですね。患者さんが、恐怖や痛みを和らげながら、人生を自分らしく生き切るお手伝いをすることが医師の役割になります。家族と一緒に、その人がどんな人生を歩んできて何を大切にしてきたのか、どういう最期を迎えたがっているのかを一緒に考えて、死を拒絶するのではなく受容していくことを手伝いながら看取る、それもまた古くて新しい医療の使命です。(後編へ続く)

前編「医師体験へ行こう」
後編「総合診療医とは」

企画/構成/取材:三山 真太郎(教育情報センター)